人間、しばらく生きていると「自分の人生、こんなものなのかな」と思う間はあります。

 先日、Twitterいきりちゃんというユーザーが「女性が育つ過程で自分の真実を知ってしまう間」の絶望について書いていました。うわ、残酷だな、と。

https://twitter.com/ikirichan/status/1032583224088616961

「受け入れがたい現実」と「バ美肉おじさん

 この書き方をそのまま面く読むならば半笑いになるだけでしょう。どこからどう見ても自分の理想とする自分像からはかけ離れた、現実の自分がの中や映像として突き付けられる。イケてない自分という認識を強く持たされる。自分の容姿に自信を持ちすぎるとナルシスト扱いされますし、自信がなければFacebook料理風景写真で一杯になるわけです。この辺の(あんばい)は実に難しい。実際、45歳になった自分の顔をで見ていて「老けたなあ」とは思うわけですが、おっさんが加齢で嘆くのはともかく、少女が自分の容姿に絶望するというのは想像するだに辛い経験だろうなあ、受け入れがたい現実そのものだろうなあとも感じます。

 俗に「バ美肉おじさん」と称されるバーチャルユーチューバー世界は、そういう自分の容姿に対するコンプレックスを解消させてくれる、良い手段です。せめて仮想の世界においてなりたい自分になれる、美しく着飾った自分が言いたいことを言い、いろんな人にちやほやされる世界を構築したいというある種の理想郷がそこにあります。「バ美肉」とは、つまり「バーチャル美少女受け」であって、昔はYouTubeTwitterに蔓延ったアニメアイコンのようでもあり、テキストサイトかわいいイラスト女の子にヲタトークをさせてアクセスを稼いできた世界の延長線上にあるわけです。それが、みんな同じようなことを考えるものだから、一気にこの世界レッドオーシャンになり、5,000人以上のバーチャルユーチューバー美少女のガワ、中身はおっさんという残念なネットコンテンツの一部に成り下がり、しかしネットコンテンツかるのはこの世界だからとベンチャーキャピタルネット系事業会社が大枚をいて進出してくる事態となって、この理想郷もまた札束と札束で殴り合う戦争に巻き込まれていくことになるわけであります。だって、なりたい自分になれる、美少女が自分のイケてない容姿に成り代わって他人からの好意を引き出してくれるんですからね。そりゃみんな飛びつきますとも。

私たちの9割9分9厘は、何者にもなれない

 そして、大量に生まれたバーチャルユーチューバーすらも、その大多数は何事を為すこともなく、再生数も伸びなければ更新頻度を維持することもできずに消えていく運命にあります。実際には、何事か為すのは容姿だけではなかった、という。みんな美少女なのに、中の人やコネクションの有で壮絶な勝ち負けが決まるのが現実であったことを、数多の敗者が思い知ることになるのです。美少女のガワを被っても、つまらないはつまらないし、映像を作り続けるアウトプットができないは一度二度動画を出しただけで冷温停止状態になるのが世の中の常であります。「く始めて、やり続けられたセンスあるが勝つ」のは、バ美肉世界も世間一般と変わらない摂理で動いているからに外なりません。

 実際には、美人でも美男子でもない大多数が、若さすらも失い、たいしたことのない人生を送る。人生はその暇つぶしとして過ぎていくのが現実でそのものです。まあ、これはもうしょうがない。いやもちろん、凡人と違う、私はではない、と思うのは、それはそれで幸せなことだと思います。他の人よりも優れた学歴を持つ、良い仕事をしている、幸せ庭を築いている、健康で日々を楽しく暮らしている、そう自信を持って言える人々は本当に幸せですけど、でもそういう幸せな時間というのは重で、気づいてみると親の介護だ自分の病気だ子育ての苦悩だ夫婦の悩みだいろんなものを抱えて人生を削り取られていくんですよね。

 かように、同じ時代に生きる私たちの9割9分9厘は、何者にもなれず、何事をなすこともなく、ただに日々を生きて死んでいく運命にあります。よく考えなくても、先週の晩飯に特別な何かを食べたかどうかすら思い出すことができない日常にいるわけですよ。っていうか、今何食べたか毎日残らず全部思い出せる人、います? 懸命に生きているはずが、その懸命さゆえに、日々の中へ人生の時間が溶けていって、いまの前にあるものしかきちんと認識できずに生きているのが人間なのかもしれないな、と感じるのです。それこそ、宮台真司さんが著書『終わりなき日常を生きろ』で破したように、理想も幻想も失われてそれぞれの人生物語として紡いでいく時代となった割に、人間として生きるための確たる規範をめがちで、しかしそれが示されずに漂流する現代日本人、みたいなものが常態化しているのかもしれません。

学歴だけがゴールじゃねえよ」と学生時代は破してみたものの、いざ社会に出てみると本当に有用な仕事学歴のある人たちが選別されている世界であることに気づき、子どもができてみると背伸びをしてお受験に走り回る親御さんは身の回りにたくさんいます。分かりやすく示されるゴールというのは、いざ手に入れてみるいものなのに。

人生ゴールを持ちえない世界で、人生デザインできるのか

 ふと冷静になって、私ってどういう人間なんだっけ、と思い返すわけですよ。将来に対する漠然とした不安、過去における拭いがたい反、見えない未来と見たくない過去に挟まれた、決して100点満点とは言えないいまの人生。理想に近づけよう、100点をそうと思えているうちはまだマシで、いや、ひょっとして何を的にしているのかすらはっきりせんのです。というか、読者の中でご自身の人生はいま標や的に向かって驀進中ですと胸をって言える方ってどれだけいらっしゃるんでしょうか。バラ色の未来に向かって日々努を重ねていられると思える人ほど、私は幸せなんだと思うんですけど、でも実際にはなき現代において理想もなければ幻想も持ちえず、これが人生ゴールだと与えられることもないなかで自分の人生デザインできる生き方ができる人は稀だ。

「なりたい自分」でなく、「そうでない自分」を受け入れていく

 むしろ「ブスだから絶望しました」からスタートして、美しくなるために努整形を繰り返している人のほうが、自分の人生が前に進んでいるのかもしれない。漠然とお金持ちになりたい、人からされたい、良い庭を築いて充実した人生を送りたいと思う人はほぼすべてだと思いますけれども、そういうゴールに向けて具体的に何をすればいいのか分かっていることなど実は少ないのだと思うのです。

 世の中には、何かを達成するモチベーションとして「何かが足りておらず、絶望する」というコンプレックスから入る人が少なくありません。これを見ていると結局は「なりたい自分」はあるけど「そうでない自分」を受け入れていく、その過程そのものが人生、ということなのかなあと感じるのです。そして、歳を取っていくごとに、年相応に老けていき、開き直りとか諦めとか受け入れることへのハードルが下がり、やがて何かを成し遂げるパワーすら生まれなくなって、昨日何を食べたのかすら思い出すことのできない日常の中に人生が埋没していく。

幸せの規範がなくなった

 先ほど述べた「人生デザインできない」がゆえの漂流は、「こうしたらみんな幸せなんじゃないですかね」という決まった類や規範がなくなったから、あまりある現代の自由の中で、もが堂々と迷子になっている状態です。確たるものもなく、地に足もつかないまま、みーんな漂流しておるのですよ。 でも、生まれ落ちて若いころからコンプレックスを抱いて標も定まらないまま長い人生を生きていくほど、私たちの精は堅ではないんじゃないか、と感じられてなりません。

 45年生きてみて、気づくのです。この人生の過ごし方は、果たして正解だったのか、と。

 まあ、あんまり後悔もしてないし、後悔したところでどうにもならないんだけど。

山本 一郎)

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(出典 news.nicovideo.jp)


<このニュースへのネットの反応>

哀愁おじさんのチラ裏に共感できる人はあんまりいないでしょうここには。


自分は自分って割に周囲を気にしすぎ。